【圓福寺の歴史】
 |
善導大師坐像 |
■圓福寺の歴史は、建長三年(1251)浄土宗の西山深草派祖・円空上人が京都深草の里に真宗院を建立したことに始まります。
円空上人は、浄土宗を開いた法然上人の孫弟子に当たり、師匠・西山(せいざん)上人から法然上人の教えを正しく受け継いだ方です。
真宗院はその後、円空上人の門弟・顕意上人に受け継がれましたが、たび重なる火災により焼失してしまいました。
■徳治元年(1306)顕意上人の門弟・道意上人が京都猪熊綾小路(現在の四条大宮付近)に仏閣坊舎を建立しました。まもなく、時の花園天皇より「圓福寺」の寺号、及び勅願所の諭旨と荘園を賜り、浄土宗西山深草派の根本道場が建立されました。
圓福寺第三世堯恵(ぎょうえ)上人の弟子たちは、各地方に赴いて念仏道場を建立しましたが、中でも岡崎市中山の法蔵寺開山・龍芸(りゅうげい)上人は、同朋門下あわせて五十余名を率いて三河国にお念仏を広めた功労者です。現在では三河地方にその流れを汲む寺院が二百ヶ寺ほどあります。
■圓福寺は歴代天皇や貴族達の厚い信仰を受けていましたが、応仁元年(1467)京都を焼き尽くした応仁文明の乱により、荒廃への道を余儀なくされました。この頃、同じく法然上人ゆかりの寺院である洛陽誓願寺との交流が始まります。
十六世紀末期、豊臣秀吉の寺町整備に際しては境内地を四条寺町の一角に移しました。同じ時期に、誓願寺も三条寺町へと移転し北にある誓願寺を「北本山」、南にある圓福寺を「南本山」と呼ぶようになりました。この二ヶ寺が文字通り深草派の中心寺院だったのです。
 |
法然上人坐像 |
■寛文十二年(1673)圓福寺中興三十世徹翁上人は、朝廷より常紫衣の直許を受けました。紫衣の直許は、通常、住職が変わるごとに申請しなければなりませんが、常紫衣は、圓福寺歴代が永久に紫衣を着用することを認めたものです。このことからも、圓福寺の格式が非常に高いものであることがわかります。
■元禄十二年(1701)勧修寺門跡二品法親王による「圓福寺」の扁額が下賜されました。これは現在も本堂内殿に掲げられ、この頃、圓福寺の堂塔伽藍最盛期を迎えました。
しかし天明八年(1788)元治元年(1864)と京の都は大火災が続き、さらに明治維新の際には役所に広い境内はほとんど没収されました。(現在の京都、新京極、寺町京極の約三分の一に相当します。わずかに圓福寺町という町名のみ残っています。)
■明治十六年(1863)廓空上人が第六十三世特命住職となり、宗派を挙げての協議の結果、檀信徒の多い三河地方に移転する話が持ち上がりました。南本山圓福寺は、岡崎市の妙心寺と寺号を交換することになったのです。
■妙心寺は寛正二年(1462)徳川家の祖・松平信光公(徳川家康より六代前)が建立した寺院で、龍芸上人の兄弟子・浄俊上人の門弟・松平家出身の教然上人が開山です。
妙心寺は檀林つまり僧侶養成所として三河地方の深草派を統合してきました。いわば本山に準ずる寺院でしたから、圓福寺が移転するにふさわしい環境でした。圓福寺は、本尊を始めとして移転できるものはすべて移したうえで、旧妙心寺の境内を継承しました。
岩津の地に移転してからわずか百年ほどですが、大本山圓福寺は、京都でも三河でも僧侶だけでなく、広く人々の心の拠りどころとなってきたのです。
|